区長が行く! ぶらっと みどさんぽ ~鳴海の宝編~ [広報なごや 7月号緑区版掲載]
緑区内の各地区をガイドさんに案内してもらいながら散歩する「ぶらっと みどさんぽ」。今回は、かつて東海道五十三次の宿場町として栄えた鳴海でさんぽしました。鳴海のお宝話をお届けします!
ガイド:鳴海歴史倶楽部 コース企画:緑区ルネッサンスフォーラム
➀鳴海駅スタート!
長嶋緑区長が、鳴海の宝の一つである「絞り」が施された夏にぴったりな浴衣を着て、鳴海の宝を見つける散歩にいざ出発。(浴衣提供:鳴海絞商工協同組合)
②浅間橋(せんげんばし)から扇川を眺める
扇川は、かつて黒末川(くろすえがわ)と言われた川が水源で、室町時代から扇川と呼ばれています。熊野社の祭りのときに舟で山車を渡しており、稚児(※乳児~幼児)の舞扇を川へ落としたため、「扇川」と言われているそうです。
宿場町があったころには、お酒や米を運ぶ船着場がありました。
③「高札場(こうさつば)」を見たことありますか?
江戸時代に幕府や藩の法令を周知するために本町交差点付近に設置されたものです。高札文面は、寺子屋(※今でいう学校)の習字の手本にもされるほどで、高札は民衆に広く周知徹底されました。
明治時代初期には取り壊されてしまいましたが、平成21年(2009年)に復元しました。本物の高札8枚は名古屋市博物館で展示されています。
④天神社(あまつかみしゃ)と「松尾芭蕉」
現在の天神社には、かつて成海神社がありましたが、室町幕府3代将軍の足利義満配下の安原宗範(やすはらむねのり)が成海神社を乙子山(おとこやま)に移して鳴海城を築城しました。鳴海城は、西と南は鳴海潟と言われた海に囲まれ、敵から攻めるのが難しいお城でした。
戦国時代では、織田の家臣が城主となりますが、今川方に寝返るなど織田と今川の争いが続きます。桶狭間の合戦時では今川方の岡部元信(おかべもとのぶ)が城主となり、織田方も鳴海城を包囲するために中島砦や丹下(たんげ)砦、善照寺(ぜんしょうじ)砦を築きました。桶狭間の戦いで今川が織田に討たれた後、岡部元信は主君の今川義元の首と交換で城を織田方に明け渡しました。その後廃城となり、成海神社の御旅所(おたびしょ)(※祭礼のときに神様が休憩する場所のこと)として天神社が建てられました。
また、俳人として有名な松尾芭蕉は生涯4度、鳴海を訪れたと言われています。江戸時代には、鳴海六俳仙と呼ばれる俳人が芭蕉を後援して師弟の関係にありました。
現在の天神社には、松尾芭蕉の句碑が3基あります。
①杜若われに発句の思ひあり(かきつばた われにほっくの おもいあり)
芭蕉熱田から知足亭(ちそくてい)へ最初の来訪の一句
②「京まではまだ半空や雪の雲」(きょうまでは まだなかぞらや ゆきのくも)
芭蕉二度目の江戸より来訪の一句
③「よき家や雀よろこぶ背扉の粟」(よきいえや すずめよろこぶ せどのあわ)
三度目の四国より来訪の一句
3つの句碑から芭蕉を感じることができます。
⑤誓願寺(せいがんじ)と「松尾芭蕉」
誓願寺には、松尾芭蕉の死後、翌月に建てられた日本最古といわれる青色の芭蕉供養塔があります。
芭蕉堂の木座像38㎝は日本一の大きさで、細根山の下郷家別荘「小山園(しょうさんえん)」に芭蕉が植えた杉の古木を彫って作られたものです。
※通常は非公開。芭蕉堂の拝観は要予約。
⑥本陣跡・根古屋山車庫(ねごやだしこ) 「山車」
宿場町には、一般の旅人の宿とは別に、大名・公家・幕府役人など身分の高い人が宿泊する本陣が置かれました。鳴海宿の本陣は、江戸時代幕末のおよその規模は総畳数159畳であり、とても広かったといわれています。
また、根古屋の山車「本陣車」は、天保10年(1839年)に建造されました。ほとんどそのままの状態で現在も祭りで使われています。
※通常は非公開。特別に拝観。
⑦瑞泉寺(ずいせんじ)
この寺に家康が大坂の陣(冬、夏)に休憩したといわれています。
もともと安原宗範が平部山に建立したお寺で、文亀元年(1501年)に現在の場所に移されました。
宗範は、鳴海城の築城や成海神社を現在の場所に移した人でもあり、鳴海の歴史を語る上ではかかせない人物の一人です。
⑧「絞り」を体験(要問い合わせ)
皆で、鳴海に受け継がれてきた伝統技法「絞り」の体験をさせていただきました。
白い布を三角に折って重ねていきます。端と端が合うように丁寧に折るのがコツ。
折った布の一部を染めて、水で冷やすと少しずつ色合いが変わっていきます。
藍色に変化しました!絞りの柄がとても綺麗です。
絞り体験の後は、本物を似せて作った「猩々(しょうじょう)」を見せていただきました。
猩々とは、お祭りで子どもを追いかけたり、神興行列をして楽しませる人形です。鳴海では、猩々にお尻を叩かれると“病気になりにくい”“縁起が良い”とされています。
⑨中島砦
鳴海城(④で紹介)を包囲するために織田信長が築いた砦です。桶狭間の戦いでは、この砦を経由して桶狭間に向かったといわれています。昭和2年(1927年)に中島砦跡の碑が建てられました。碑は私有地にあり、ご厚意で開放されています。
⑩浅間社
祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)。以前は浅間橋横で鳴海八幡宮の御旅所とともにあり、浅間堂と言われて親しまれていました。普段は非公開ですが、実際にお祭りで使用されている猩々(⑧でも登場した赤い人形)を見せていただきました。鳴海の「追っかけ猩々」として、祭りで子どもたちに喜ばれています。
最後に
今回のみどさんぽを企画した緑区ルネッサンスフォーラム会長に、鳴海の歴史について聞いてみました!
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〈山村会長〉
鳴海は、かつて船着場もあり熱田、桑名、大垣などと伊勢湾交易をしていて、東西の文化の接点でした。桶狭間の戦いでも東西の勢力の抗争の場であり、古くからの歴史が多く残っています。
また、1500年~1600年代に鎌倉街道沿いの集落(相原郷、宿地など)から東海道筋の鳴海に人々が移住し、寺院も鳴海山(宿場の裏山)に移ったことで、鳴海宿の原型が形成されました。
東海道は、義元、信長、秀吉がその時の情勢により軍用道路として整備され、家康が東海道五十三次として完成させたもので、鳴海宿は品川から40番目の宿場です。
そして、その鳴海宿成立は鳴海の歴史の積み重ねが影響しています。特に家康が鳴海に度々、来たことが関係しているといわれています。桶狭間の戦いの翌年、家康が大高に来た際に、鳴海では信長・家康の重臣が会い和睦しています。家康は、本能寺の変で信長が討たれた後、鳴海に本営を構えて西国の様子見をしていて、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大坂の陣の時も鳴海経由で進軍しています。このように、家康は鳴海に何度も訪れていたのです。
その他、この地域の山車、猩々を含めた祭りも神事であると同時に文化です。庶民の文化の継承として祭りは欠かせません。現在も古くからの歴史が多く残り、宝を受け継ぐまち、それが鳴海です。
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絞り、山車、猩々、寺社仏閣に砦、そして歴史。
今回のさんぽみちでは、鳴海の宝をたくさん発見することができました。
普段何気なく歩いている道にも宝があるかもしれませんね。皆さんも鳴海に来て、実際に歩いてみませんか?緑区役所地域力推進室(3階34番窓口)では、緑区ルネッサンスフォーラム制作の散策マップを配布しているので、ぜひ活用してみてください。
※この記事の内容は、諸説あります。