今知りたい!名古屋と徳川家康の関係!
名古屋市広報課の植木です。1月から徳川家康を主人公とした大河ドラマが放送されるにあたり、名古屋と徳川家康の関係が気になる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
今回は、名古屋のシンボルとも言える名古屋城を中心に、徳川家康がどのようにして名古屋を造ったのかご紹介します。
あまり歴史に詳しくない方でも読みやすい内容となっていますので、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです!
徳川家康の命で造られた名古屋城
名古屋城とは、関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって現在の名古屋市に築城されたお城です。天守閣の屋根に飾られた「金鯱」は名古屋のシンボルとして全国的にも知られていますね。天守閣の他、2018年に復元公開された本丸御殿・国の名勝に指定されている二之丸庭園など敷地内には見所がたくさんあります。
本丸御殿
本丸御殿は、1615年に尾張藩主の住居かつ藩の政庁として建てられました。1620年に住居と政庁の機能が別の場所に移されたことで、以降は将軍上洛の(京都に行く)際の宿泊所として使われました。
三代将軍 家光の上洛に際して、上洛殿などが増築され、さらに豪華な内装となりました。御殿の中は、金の襖に描かれた豪華な障壁画、天井絵や豪華な装飾などで彩られ、さすが尾張藩主の住居・将軍の宿泊所といった造りになっています。
二之丸庭園
二之丸庭園とは、名古屋城東門から入って右手側に広がる庭園です。
面積は約3万㎡に及び、藩主が居住した御殿の庭園としては日本一の規模を誇ります。
秋には紅葉でとても綺麗な庭園なのですが、単なる「綺麗な庭園」では終わりません。ここには、敵から攻められた際に藩主が脱出するための非常口の門が設置されていました。その名も『埋門(うずみもん)』。
かつてこの場所にあった埋門をくぐり、石垣を降り、お堀から船に乗り、脱出するという経路です。ところが、なにがあろうと逃げるのは臆病だということで、この門は『臆病門』とも呼ばれていました。
どうして家康は名古屋城を造ったの?
徳川家康は、自身の子で尾張徳川家である徳川義直(のちの名古屋城初代城主)を清須城の城主とするのをきっかけに、清須城の大修理を計画しました。が、「清須城を大修理するよりも、新しいお城を築いた方が良いのでは?」という家臣からの声や、清須には木曽川や五条川・湿地などがあり、敵から水攻めを受ければ大打撃を受ける、など様々な理由により清須の町ごと那古野(現在の名古屋)へ引っ越しをすることとなりました。これが世に言う「清須越し」です。
那古野は、乾いた台地で熱田の海も近く、東西の交通も開け、大軍を動かすのに都合が良い。まさに城を築くのに恵まれた立地でした。
名古屋城を造る!
1610年、まずはお城の土台となる石垣工事が始まります!名古屋城城郭の石垣は総延長8.2kmにも及ぶため、大工事だったことがうかがえます。この石垣工事を命じられた一人が熊本から2万人の家来を連れてやって来た「加藤清正」という大名でした。石垣を造るといっても、ただ石を積み上げるだけでなく、砕石、石の運搬、寸法などを調整したうえで工事をすることになります。現代のように、機械化が進んでいない江戸時代で、なんと加藤清正は3カ月足らずで持ち場であった天守台の工事を完成させてしまったそうです!(信じられないスピードです、、、)
名古屋城の敷地内には、加藤清正が石垣工事の指揮を取っている様子が像として残されています。加藤清正がどれだけ名古屋城造りに貢献をしたかが分かります。
皆さんは石垣をじっくり見たことはありますか?石垣をよく見てみると、石に印がつけられているんです。
名古屋城築城時、石垣の工事現場は、担当ごとに区分が分けられていました。苦労して取ってきた石をお隣さんに使われてしまったり、間違えて使ってしまったり、ということを防ぐために自分の石に印をつけて区別していたそうです。様々な印がつけられているので、石垣をよく見てみるのも、名古屋城をさらに楽しめるはずです!
また、「清正石」というものをご存知でしょうか?本丸東二之門を入った正面に推定約10トンとも言われる巨大な石を見ることができます。加藤清正が運んだのでは?という言い伝えもありますが、別の大名の施工した場所になるので、なぜ清正石と呼ばれているのか、、、真相は謎に包まれています。
徳川家康は、名古屋城の築城にあわせて、城下町を造るのに必要な木材、お米や味噌などを運搬するため堀川の開削を「福島正則」という大名に命じました。名古屋城の土台工事をし、流通の要となる川をつくり、徳川家康は、こうして名古屋のまちの礎を築いていきました。
堀川、福島正則については、名古屋市公式noteで紹介していますので、ぜひご覧ください。
家康こだわり!名古屋城攻撃への備え
名古屋城天守閣の壁は、ぶ厚い土壁でできており、防火・防弾の効果が高く造られています。また、壁には所々、鉄砲の銃口を塀の外に突き出せるよう穴が開けられている仕掛け「鉄砲狭間(てっぽうざま)」があります。そして、名古屋城天守閣では鉄砲狭間の外側を土壁で塞いでしまうため、敵にしてみればどこから鉄砲の弾が飛んでくるか分からない恐怖の仕掛けとなっています。こうした仕掛けを「隠狭間(かくしざま)」といい、全面的に取り入れたのは家康だけで、名古屋城ならではの備えといえます。また、本丸表門の土塀に開けられた鉄砲狭間など、城内のいたるところで攻撃を防ぐ仕掛けを見ることができます。
大天守閣に寄り添うように建てられた小天守閣、実はこれも城を守るために重要な役割を果たしています。大天守閣に辿り着くためには、小天守閣を通らなければならないのですが、内部の通路はコの字形に折れ曲がり、その道中にも敵に石を落とすための仕掛けがされていたりと、かなり攻めづらい造りになっています。攻撃の備えは万全に。家康の徹底ぶりがうかがえますね。
金鯱は家康のチカラの象徴!
名古屋のシンボルとして全国的にも知られている名古屋城天守閣の「金鯱」。鯱は水を呼ぶと言われていることから、火事を防ぐまじないとして室町時代前期頃から飾られるようになりました。やがて、鯱は城主のチカラを象徴するものとして、織田信長の築いた安土城や豊臣秀吉の築いた大阪城の天守閣にも飾られました。
ただ、他のお城の天守閣に飾られているものと違い、名古屋城に飾られている鯱は、純度80%の金が使用されていて、超豪華!
徳川家康の権力・財力をよく表しています。
#なごやを歩こう番外編? 金鯱を探そう!
名古屋を歩いたことがある方はお気づきかもしれませんが、名古屋の街には金鯱があふれています。名古屋市役所から名古屋城に行くまでの道中でどれだけの金鯱を見つけられるでしょうか?スタートです!
まずは、名古屋市役所からスタート!よし、庁舎を出ようと思ったら、、、
出入り口の手すり部分に金鯱がいました!金色ではないですが、形は間違いなく金鯱です。あまり目立たないので、見落としてしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。出発地点から早速発見できるとは、幸先良いスタートです。
市役所を出て、名古屋城へ向かって歩いていると「金シャチ横丁」に到着します。金シャチ横丁は、尾張藩初代藩主である徳川義直の名前を取った「義直ゾーン」と尾張藩7代目藩主である徳川宗春の名前から取った「宗春ゾーン」で構成されています。名古屋めしを食べられる飲食店や、カフェなど様々なお店が入っていて連日賑わいを見せています。ここでも「金シャチ」の名前が付けられていますね。
そして、宗春ゾーン入り口でまたもや金鯱発見です!
これは「名城金鯱水(めいじょうきんこすい)」という名古屋市上下水道局が設置している冷水機です。マイボトルを持ってくれば、無料で名古屋のおいしい水道水を飲むことができますよ!ここで水を汲んで名古屋城へお出かけするのもオススメです。
ここでとうとう金色に輝く金鯱を拝むことができました。
道中、ふと足元を見てみると消火栓にも金鯱が描かれていました!
また金鯱と一緒に名古屋城もデザインされています。名古屋市内を歩いたことがある方は、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?というのも、この消火栓は、名古屋城近くだからこのデザインになっているのではなく、市内全域に設置されています。ということは、、、市内の至る所に金鯱が散りばめられているということです!! 一体どれだけの鯱がいるのでしょうか。
そんなこんなで名古屋城に到着しました。見落としてしまっているものもあるかもしれませんが、市役所から名古屋城まで徒歩約5分の道中でこれだけの金鯱を発見することができました。また市内には、金鯱を模したスイーツを出しているカフェやエビフライを金鯱に見立てて丼物を提供している飲食店などがあり、ありとあらゆる所で金鯱を見ることができます。金鯱を一切見ずに名古屋市内で生活をする方が難しいと言っても過言ではありません。
徳川家康も、自身で名古屋城天守閣に設置をした金鯱がこのようなことになるなんて想像していなかったのではないでしょうか?
徳川家康が造ったまち、名古屋
名古屋のまちを築き上げた徳川家康。簡単ではありますが、その原点ともいえる名古屋城についてご紹介させていただきました。2023年は、徳川家康が大河ドラマで取り上げられることもあり、全国的に名古屋市が注目されています!ここで紹介をしたのは、ほんの一部で、まだまだ名古屋城・名古屋市には面白いポイントがたくさんあります。少しでも興味を持たれた方は、是非調べて、名古屋城に足を運んでみてはいかがでしょうか?