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名古屋の洋楽の発祥は鶴舞公園から!?100年以上の歴史を紐解く

名古屋市広報課の丸澤です。

名前で話題になる「鶴舞」。

地名・駅名は「つるまい」、公園や図書館、小学校は「つるま」。
今回は「鶴舞(つるま)公園」に取材に来ました。

鶴舞中央図書館、名古屋市公会堂、テラスポ鶴舞などを目的に市外からお越しになられる方も多いかと思います。

公園内を散策して、「これ何なんだろう?」と思われる建造物などいくつかあるかと思いますので、今回は鶴舞公園内にある緑化センターの佐々木所長にお話を伺いました。

自己紹介

(―は丸澤が発言)

―自己紹介をお願いします。

佐々木:鶴舞公園の指定管理者として管理・運営にあたっています公益財団法人名古屋市みどりの協会の佐々木です。

緑化センターで所長をしていますが、緑化センターとは緑化に関する知識の普及および市民の意識の高揚を図るため、緑化相談や指導、資料の展示、講習会・研究会等の開催等を行っている施設です。昭和55年5月15日にオープンし、令和2年には開館40周年を迎えました。

左:佐々木所長 右:丸澤

 

鶴舞公園の概要

―100年以上の歴史のある鶴舞公園、簡単に大きさと歴史とか教えていただけますか?

佐々木:1909(明治42)年に名古屋市の中心部に開園した市設置第1号の公園で、2019年に開園110年を迎えた歴史ある公園です。

名古屋市民や野球ファンの方なら分かるかもしれませんが、大きさは「バンテリンドーム ナゴヤ」5個分の約24haもあります。

公園内に図書館、公会堂、多目的グラウンド(テラスポ鶴舞)、野球場と様々な施設があるだけでなく、古墳(円墳)も公園内にあります。

・明治42年に開園した名古屋市設置第1号の公園(令和元年11月19日に110周年を迎えた)
・フランス式整形庭園と回遊式日本庭園が融合した和洋折衷の公園

「鶴舞(つるま)」公園の名称は、当時の告示文書や公報からも読み取れますが、なぜ「つるま」にしたか、はっきりとしたことは分かりません。


―なぜ、この名古屋市の中心部にあたる場所に作られたのでしょうか?

佐々木:1873(明治6)年の太政官布達により公園制度が設けられ、「名古屋にも大きな公園を」という希望がありつつも、なかなか実現してこなかったようですが、

・1905(明治38)年の精進川(新堀川)の改修工事の浚渫(しゅんせつ)土砂の持ち込み先として検討

・1907(明治40)年第9 回関西府県連合共進会(博覧会)において、明治 43 年に第 10 回を愛知で開催することが決定しており、会場となる場所が必要

ということもあり、1909(明治42)年に念願が達成したようです。

田園地帯を埋め立てて出来た公園ですが、27万㎥という大量の土砂が使われたようです。これは10tダンプ約45,000台分に相当し、東京駅から名古屋駅を10tダンプが隙間無しで並ぶ量ということになります。

当時は10tダンプではなく、馬に土砂を引っ張って貰って工事をしている写真があり、当時の苦労を伺い知れます。

名古屋の洋楽の発祥は鶴舞公園!?

―1989(平成元)年の世界デザイン博覧会や2005(平成17)年の愛・地球博は多くの方にご来場いただいていましたが、関西府県連合共進会はいかがったのでしょうか?

佐々木:第10回関西府県連合共進会は1910(明治43)年に開催され、これは開府300年の記念の年でもあります。

3月16日から6月13日の90日間の開催で、記録を調べると約260万人の方が来場したとのことです。

当時の名古屋市の人口が約40万人ということを考えると、賑わいぶりが分かるかと思います。

 
―この時期に鶴舞公園のシンボル的な噴水塔や奏楽堂が造られたとか?

佐々木:はい、両方とも1910(明治43)年に「名古屋建築の父」と言われ、名古屋高等工業学校、現在の名古屋工業大学の教授などを務めた鈴木禎二氏の設計です。

噴水塔

噴水塔は塔基に木曽石、三河海石を喰いこませた大胆なまでの岩組は茶人、村瀬玄中宗匠の意匠です。

そのデザインは、洋服に下駄履き姿の明治調をあらわして和洋折衷(和魂洋才)の公園デザインと一体のものとなっています。

大噴水からあふれる8本の繊細な小滝を承露盤でさらに細かく砕き、水玉と霧に変化させるユニークな姿です。


奏楽堂

奏楽堂は建てられた当初は今のようなルネッサンス風建築でしたが、老朽化のため、昭和12年に別の形に再建されました。平成 9 年に初期の形に復元され現在もイベントを中心に活用されています。

階段の手摺模様として鶴のような水鳥と青海波を、ブラケットに鳥の羽形を用い、更に鉄柵に「君が代」の楽譜を付け、屋根飾りとして楽器を付けています。

 

―奏楽堂の鉄柵の音符は気づきましたが、「君が代」だとは知らず。

佐々木:第10回関西府県連合共進会で奏楽するために、「名古屋音楽会」が組織されたそうです。明治43年3月16日の共進会開会日に、演舞場と台湾館の間にあった竜ヶ池の展望台(現在の浮御堂)で演奏された「名古屋音楽会」の楽隊は、翌17日以降、場所を奏楽堂に移し、演奏を始めたそうです。
東京や関西に遅れをとっていた名古屋の洋楽の広がりは、共進会をきっかけにして進んだのではないかとも言われています。

―本当に音楽を奏でたんですね!

佐々木:昼間は連日10曲前後演奏して、夜間も日曜日などに限定して行っていたようです。演奏者は17名で、楽長の三田正美氏が作曲した『共進会行進曲』『名古屋行進曲(名古屋祈念行進曲)』」、そしてワグナーの『 タンホイザ 』、『ローエングリン』、グノーの『ファウスト』などのオペラからの抜粋、種々の行進曲、ワルツ、ポルカ、接続曲など 150 曲以上が演奏されていたようです。
(参考:小沢優子『明治40年代の名古屋の洋楽受容』)

 共進会をきっかけに継続的な洋楽演奏が行われ、多くの来園者に、普段聴くことのない洋楽の響きを届けていて、名古屋の洋楽の発祥は鶴舞公園であると言っても良いかもしれませんね。

 

動物園もあった!?


―以前に東山動植物園の記事を書いた際に、鶴舞公園に元々は動物園があったと知りました。動物園の話などもお聞かせいただけますか?

佐々木:元をたどると1890(明治23)年に今泉七五郎氏が自ら集めた動植物約1,000種を『浪越教育動植物苑』と名付け、中区前津町で一般公開を始めました。

 ニシキヘビ、ライオン、トラ、サルなどの動物を揃え、多くの人で賑わったそうです。大正時代に入ると、周辺からの苦情や、後継者がいないことに悩んだとのことです。

 1915(大正4)年に市長あての「動物園建設に関する意見書」が議決され動物園建設の機運が高まり、1918(大正7)年に今泉氏の所有の動物が名古屋市へ寄付されました。獣類79点、鳥類273点、ワニ類2点、カメ類27点ヘビ類48点、魚類52点に及んだそうです。

 1918(大正7)年『名古屋市立鶴舞公園付属動物園』が鶴舞公園南西部に誕生し、1919(大正8)年から夏季には約1ヶ月の夜間開園(午後10時30分まで)を実施していたようです。

 1929(昭和4)年『市立名古屋動物園』と改称し、1933(昭和8)年には『世界動物探検博覧会』を開催しています。

 1937(昭和12)年に東山へ移転するまでの19年間、市民の動物園として多くの人に親しまれました。

 

―場所はどのあたりにあったのですか?

佐々木:今のテラスポ鶴舞の南と西あたりです。

1931(昭和6)年6月鶴舞公園平面図に「動物園」という記載も見られます。動物園の跡地には、現在でも通用門の門柱2基が当時のまま残っています。

 

 東山動植物園の記事はこちらから↓

 

 

最後に

鶴舞公園には、他にも「普選記念壇」や、茶室の「鶴々亭」と「百華庵」、内閣総理大臣桂太郎の筆による扁額等、着目する所は多いのでまた来たいと思います。

桜や薔薇や花菖蒲など、いつ訪れても季節のお花が楽しめるので、図書館、公会堂、テラスポ鶴舞に用事がある時に見て回っています。

 都会の中心部に、これほど大きな公園があるのは、個人的には凄く誇らしいです。


 
緑化センター前の福祉型花壇(車イスの方にも花植えをしていただくことができます)、令和4年3月上旬撮影

 
今回お話いただいた所長さんがいらっしゃる緑化センターまわりには、花壇や見本園(8月上旬から10月上旬までが見ごろのスイフヨウが有名)があり、専門の相談員による「みどりの相談コーナー」などがありますので、皆さまにもぜひお越しいただきたいと思います。

緑化センター玄関前で撮影 左:今井課長 中央:佐々木所長 右:丸澤